2012年03月23日

政局ではなく、国民のための議論を

橋下徹大阪市長に国民の期待が集まっています。政治はもとより社会全体に閉塞感が覆い被さっている状況の中で、歯切れの良い物言いや単刀直入な政策に注目が集まるのは当然のことだと思います。また、政治に身を置く者は猛省を求められていると厳しく受け止めなければなりません。しかし、そうした政策や政治観がそのまま日本社会に受け入れられ、かつ、この国難を打開する特効薬になるかといえば、そうではないと考えます。なぜならば、我々の社会は、相応の時間を掛けてじっくりとものごとを議論して社会を進めていく、民主主義的熟議やプロセスそのものを重視することが前提になっているからです。

仮に、我が国が、お隣の中国のように、国会の会期が一年のうちたったの10日間で、政治局常務委員とよばれるトップ9人が13億人の命運全てを差配するような政治体制であれば話は別です。しかし、我が国はそうではありません。確かに、中国の政治風土からすれば、一ケ月以上も予算案の可否に関して国会で議論していることなど無駄と非効率の極致だ(日本の政治史を振り返っても過去に当初予算案が否決されたことは一度もありませんので)ということになるでしょう。しかし、我々はあえて時間をかけて議論をし、その中身をオープンにすることで多様な意見を取り入れていく仕組を選択してきたのです。

さて、平成24年度予算案の衆議院での審議がようやく終わりました。補正予算の審議を含めてほぼ2ケ月にわたって予算委員会に缶詰になっていて痛感したことは、ねじれ国会を前提としながら、国益と国民を見据えた熟慮の民主主義、政権交代可能な二大政党制の定着をあくまで追求しなければならないということです。そして、その萌芽が見え始めているということも感じています。批判のための批判や、単に足を引っ張るだけの質問が無くなった訳ではありませんが、明らかに減ってきている気がしています。

社会保障や消費税の議論、あるいは選挙制度そのものなど国民生活の根幹に関わる課題に関しては、あくまで政局を抜きにして真摯に議論をすべきです。与野党で財政的な制約や技術的制約を共有し、それぞれの案に拘泥することなく合意を目指して汗をかかなければなりません。また、合意の中身に与野党が責任を持ち、議論をパフォーマンスに用いず、重要課題を選挙の争点にしないなどの取り決めが必要になるでしょう。さらには、関係団体からの圧力を排除し、すべての情報を国民に開放する文化を確立することが求められます。その先にこそ、国難を乗り越えた日本の将来が見えてくるのではないでしょうか。
posted by 村越ひろたみ at 00:00| 政治放談